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“パラ陸上の鉄人”永尾嘉章が語る①「車イス陸上との出会い」

※公開時点(2021.8.25)の情報です。

●永尾嘉章氏のインタビュー動画(04:50)

パラリンピックで日本人最多の7大会出場を果たした元選手がいる。兵庫県三木市出身で、車イス陸上の元選手・永尾嘉章氏だ。競技生活30年をトップパラアスリートとして駆け抜け「パラ陸上の鉄人」と呼ばれた永尾氏に、パラ陸上との出会いを聞いた。

―パラ陸上の鉄人と呼ばれた永尾さんは、5歳のときに両足が不自由になったそうですね

永尾 はい。後でわかったんですけども、ポリオっていう病気にかかりまして、それで下半身が麻痺して車椅子の生活になったというわけですね。

ー子ども心にショックでしたでしょう。

永尾 5歳ですからね。このことをきっかけでふさぎ込んでしまって、あまり家の外からは出なかった時期が長かったですね。なので小学校と中学校ってほとんど学校と家の往復だけで終わってしまいました。

―ところが高校でパラスポーツと出会うわけですよね。

永尾 もう本当に運命的な出会いでした。高校に進学してもやっぱり相変わらずふさぎ込んでて、何もしたくなくって、ダラダラしてたんです。でもすごい厳しい体育の先生がいらっしゃって、その先生がですね、「永尾は陸上やれ」って言うんですよ。いや、そんな陸上なんて興味がないし、スポーツもやりたくもなかったから、「嫌や」って断ってたんですけど、なんか知らんけど先生が勝手に大会申し込んでた。それで、仕方ないから今回だけは出てみるか、みたいな格好で、無理やり出さされたのが、始めたきっかけなんですよ。

―半ば無理やりに出場させられたわけですが、いかがでしたか?

その頃はね、まだ今みたいに競技用の車イスも発達してなかったから、普段乗っている車イスで走るなりスポーツを楽しむという感じでした。やるまでは嫌やなと思ってたんですけど、いざやってみたらね、とても楽しかったんですね。

その気持ちは30年以上経った今でも覚えてます。あの頃、ちょうど高校1年生で16歳でしたけど、乗った瞬間、「自分が走れる」っていうことがわかった瞬間の気持ちですよね。「これ、やれるな」って思いましたし、「これからずっとやっていくんだろうな」と直感で感じましたね。

―まさに運命の出会いだったわけですね。

永尾 もう、あの先生がいなかったら僕の人生、一体どうなってたことだろうと思いますね。今ではその先生には感謝しかありません。

―最初の大会を終えた後に、その先生と交わした言葉は覚えてますか?

永尾 初めて出たとき僕は高校1年生で、周りが大人の選手ばっかりで、当然負けてしまうんですよね。負けたんだけども、それまで一生懸命練習をしてきたんで、やっぱり負けたら悔しいんですよ。で、勝った選手見たらすごいかっこいいし、羨ましい。だから、何か俺もあんな風になってみたいな、勝ってみたいな、と思ってたんですよ。その時に、これまた先生、そういう気持ちを見越していたのか見透かしていたのかわかんないですけど、「お前もっとやれ」って言うんですよ。何ならもっとトレーニングのメニュー考えて先生も一緒にやるぞって言ってくれたんですよ。はい。それでね、この競技を続けていくっていう気持ちになりましたね。

―そこから自然とパラリンピックが目標となったんですか?

永尾 いや最初の頃はね、パラリンピックのことも知らなかったんですよ。在学してた高校が寮でね、一緒に住んでいた同級生から、「お前そんなんやったらパラリンピック出たらええやん」とか言われてね。本当に軽いノリで、「そんなんあるんやったら俺も出てみたいな」と思うようになって。友達の何気ない一言がきっかけで目指すようになりましたね。

―自分がこれから何ができるかわからないけれども、陸上が楽しいという気持ちだったんですね

永尾 もうね、“できない”と思ってたことが“できる”ってわかったときのその気持ちというのはね、やっぱりすごく衝撃的でした。自分の中で「やれるんや、オレ」みたいなね。

<永尾嘉章氏プロフィール>
兵庫県三木市出身。30年間にわたって日本のパラ陸上界を引っ張ってきた「鉄人」。パラリンピックには1988年のソウル大会から2016年のリオ大会まで日本人最多の7大会連続出場。アテネ大会4×400mリレー銅メダリスト。

放送/ラジオ関西「PUSH!」2021年8月25日OA
インタビュアー/津田明日香

※掲載情報は2021年8月25日現在の情報です

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